ワールド・コーリング

小説を書いたり、読書をしたり、写真を撮ったり、ゲームをしたりします、

十月のこと

 誰が言ったが知らないが、読書の秋ということで本を読んだのだけれど、本なら年がら年中読んでいるので、秋の読書になってしまっているが、まあ、いい、とにかく本を読んだ。

 かねてから短歌というものに興味があって、作りたいな作れるかなとまるでプラモデルかジグソーパズルでも組み立てるような勢いで過ごしていたのだが、とうとう短歌の入門書に目を通してしまった。短歌とは五・七・五・七・七の三十一文字で著される定型詩であり、俳句には季語を入れるのが原則になっているが、短歌にはそうした縛りがなく、まあかなり乱暴に言えば三十一文字のツイッターだ。いや、イメージとしては五文字制限のセルと七文字制限のセルを連続して入力して表現する詩だろうか。

 入門書を読んでちょっと驚いたことをいくつか。

 言葉を工作しても良い。何のこっちゃ。まあ、実例を挙げるのが面倒なのでふらっと説明すると、「砂漠を渡る」ことをちょちょっとそれっぽくして、「砂漠渡(さばくわたり)」とか「音楽を聴いて涙する」ことを「音聴き涙(おとききなみだ)」とか、かなり無理筋でも言葉をおしゃれに仕立てるのが評価される……らしい。説明がないと「何のこっちゃ」と思われるかもしれないけれど、それが詩なのだ。造語が好きな人は短歌ハマるかもしれないですね。僕も造語は好むので短歌向きなのかもですけど、わざわざ言葉を作らなきゃ表現できないことかなあと思って言い換えに走るのが常なので、好きだけど使いこなせてない。あとは苦肉の策で造語をぶちかますのと、メインウェポンで造語を使うのは割と差があって、前者は逃げ腰なんだけれどおそらく短歌的には妙手と拍手喝采になるが、後者はロマンあふれるアクロバティックな姿勢なのだが短歌的にはそういう競技じゃないからとたしなめられそうな感じがする。

 季節の変わり目を上手く捉える。つまり、春から徐々に梅雨になりつつある様子とか、夏からやや涼が感じられるようになってくる秋の夕暮れとか。四季のグラデーションを感じろってことですね。別に驚くほどのことじゃないけど、普段俳句に触れることが多いと、季語ってあるじゃないですか。まんま、四季を詠むことが多くて、その曖昧なところは狙うと季語を二つ使う禁忌に引っかかりそうなので(俳句には季語がいっぱいあり、知らず知らずに発動している時がある)、あまり意識はしてなかったが、むしろ短歌ではそれが評価されるのだと。でも、四季の変化はむしろ今感じにくくて、春の後にゲリラ豪雨がやって来て急に猛暑になり、台風の後でいきなり夏からウインドブレーカーの必要な気温になったりする。だったらむしろ季節なんて排した生活と美に注力した一首を求めた方がとも思うけれど、詩と四季は伝統的に抱き合わせなのでまるで無視はできないというか、どこまで行っても短詩には付きまとうジレンマなのかも知れない。むしろ、そういう四季グラデーション短歌をいっぱい作って四季折々の妙を文学の中で保存しようという動きがあるのか。ないのか。分からんが。

 ゲーミングチェアを先月買い、そして今月は夢にまで見たゲーミングPCを買ってしまったのでした。超高速チップと潤沢なメモリ、憧れのGPU! ああ、素晴らしきGPU! もうね、知り合いとグラボ談義がこれで弾むんだよね。グラボについて語りたいがために積んだようなもんだよね。ちなみにゲーミングPC買ってからしばらく経ちますが、まだ小説しか書いておりません。すげえですよ。Wordがノータイムで立ち上がります。

 それじゃあんまりだってことで、鉄道模型シミュレータというものを触ってみたのですが、これがまた完成度を求めた故の不便さを備えており、どうやらリアルの鉄道模型をPCで再現するという点に拘っているらしく、線路のパーツがフリーハンドで伸ばしたり縮めたりできないのですよ。ほら、現実の鉄道模型も線路パーツを上手くやりくりして道を作るでしょう? 再現度が高すぎて上手く環状線が作れなかったんですよね。プラレールをパソコンで組み立ててるみたいでした。半日使いました。で、完成させたコースを実際に走らせてみた。殺風景な野原を列車が走っていく。ひとしきり感動して夢中で走らせていると、パソコンから気高い金属音が聞こえてきた。レーザーを照射しているような、カセットテープを巻き戻しているような音で。それがGPUの稼働音だと気づいた。この音を聞くために、これから先僕は何度でも3Dグラフィクスを表示させるだろう。手始めにアサシンズクリードでもやるか。

 このブログ以外にも手書きで日記をつけている。もう五年以上毎日欠かさず書きしたためているが、内容はこの場に輪をかけてどうでもいいことで、どこへ行って何をしたとか誰と会って何を話したとか、純粋な記録になっている。初めのうちは普通のキャンパスノートを使っていたのだけれど、労働によって得られた賃金の使い道として日記帳というものが候補に挙げられて、それからはちょっと贅沢をして「ほぼ日手帳」、使ってます。一日一ページのやつで、繰り返すけれど本当に何も書いていないに等しいほど内容がない。
 ただ、日記を書く環境を作るというのが給料のはけ口となり、ローソンで90円で買ったボールペンはやがて500円のドクターグリップになり、そしてとうとう去年からは1000円程度の安い万年筆となっていた。
 自分の飽き性はよく理解できているので、万年筆なんてきっとすぐに飽きてしまうだろうと高をくくっており、インクカートリッジを買って、5本だか6本だか入っているインクを全部使いきれたらちゃんとしたコンバーター式の万年筆を買おうと思っていた。コンバーターというのはインク瓶からインクを吸入する部品であり、これがあればカートリッジは不要となるが、インク自体が決して安くないので一つ思いとどまっていたのである。
 ところがこれがなかなか習慣となって続いてしまい、とうとう10月の最後にカートリッジの最後の一本にたどり着いたのである。これは高級万年筆デビューも秒読みかと思いながら日記を書いていたが、まさかの寝落ちをしてしまい、万年筆のペン先が洋服に押し付けられる格好で寝入ってしまっていた。結果、インクが全部吸われました。シャツの脇腹には真っ黒なシミが残り、まるで戦闘で深手を負った人のようになった。
 こうして一本丸ごとインクカートリッジを洋服に注入してしまい、カートリッジの残数はゼロとなった。これで高級万年筆に移行していいものか。ちょっと悩んでしまっている。後味の悪すぎる目標達成である。万年筆を使う限り、このような事故は防ぎきれない(寝落ちしなければいいが、私は眠るのが好きなのだからしょうがない。起きているとき以外は寝ていると言っても良い)。万年筆のインクは洋服に付着すると家庭では取るのが難しく、インターネットで方法を探して色々試してみたが、やはりインク一本分の破壊力はすさまじく、脇にシミを残したままとなってしまった。再発防止のために脱万年筆をしようかどうか考えて、色々と水性ペンで日記を試しにつけてみたけれど、どうも勝手が違うんだ。悩みどころである。

 小説の一次選考に通っていた。いやこれは選んでもらって悪いのですが、完全に落とされたと覚悟していたもので、前回は自信満々で送った作品を虫でも振り払うがごとくあっけなく蹴られて、それと比較すると今作はあまり要素がかみ合っていないし、展開にも無理があったので、もちろん落選と信じていたのだが、思いがけず自分の名前を通過者一覧の所で見つけて3度見した。最初に抱いた感想が、何度も自分の中で繰り返し残っている。だから、ここにも書いておきたいと思います。今年書いたやつが一作でも選考を通過してよかった……。だって、そうじゃなかったらこの一年何だったんだって悲しくなる。着実に力をつけている実感はあるけれど、出来なかったことが出来るようになったり、出来るようになっていたことが体に定着して自信に変化していたり、いくらでも自分の成長を信じるのは容易いけれど、やっぱり外からの結果として返ってこなかったら、それは、すごく、怖い。思いません? でも、一次通過するために小説を書いているわけではないので、さらに先へ、そして次も納得のいく作品ができるように日々書いていくだけです。

 最初の詩作の話に戻るが、入門書を読んで何首かノートにしたためてみたのだけれど、何で自分はこんなものを書こうと思ったんだろうって自己嫌悪してしまうものばかりができた。詩は小説ではないし論文ではない。理性とかそういったものが入り込む余地はない。だから、日常の中でふと「ああ、これは短歌にしよう」みたいなものを見つけてアイデアとしてストックしていざ取りかかると凡庸極まりないものになってしまいガッカリする。ふと、自分がどうやってこれまで短詩を作ってきたかを思い出した。

 まず、言葉ありきだった。これを使いたいなという単語をどこかから見つけてきて、そいつを軸にして流れを作る。やがて塊になったころで、また主軸となる言葉をいじる。世界に存在するイメージというものと、その時々で生起する言葉には深い関係があって、その繋がりを上手く取り持てたならきっと良い詩が作れるのだ。だから、ふとした「出来事」というのは日常の中にあるイベントであり、それは説明文やイメージ作成(お絵描きとかね)で、抜群に題材として強さを発揮するが、私の場合は「出来事」は言葉を鋭くするためのきっかけでしかない。だから、無理に場面やら情緒にこだわると詩は自分にとっての特別なものになってこない。びったりとあてはまる言葉がどうしても必要なのだ。詩で必要とされる感性は詩人の感受性の意で使われることが多いけれど、私の場合は心を動かすだけでは駄目で、その先の心を動かす言葉までがセットになっていないと自分の世界にたどり着けない。だから、短歌はまだ完成しません。この場で発表できるようなものができるといいな。今年中にでもね。